父の戦争体験
(後述筆記による)
山城一純

大正十年九月一日、沖縄県島尻郡高嶺村大里生まれ。七十八歳。
 徴兵検査は昭和十六年五月頃、二十歳(旧制中五年生)時にうけ、前年に発症した結核性胸膜炎の為丙種合格(実際は不合格)、検査官(沖縄連帯区司令官)より「学問はやめて農に還れ」と言われた。
 昭和十七年五月、村農業組合書記として就職。
 昭和十九年夏頃郷土防衛隊として小縁軍用飛行場の滑走路の建設に徴用された。竹槍訓練にも度々駆り出された。
 昭和十九年十月十日、那覇大空襲。本土疎開が頻繁になる。
 昭和二十年一月、祖父直盛(四十三歳)は荷馬車と共に郷土防衛隊員として軍に召集された。(六月中旬、県南部にて戦死)。
 昭和二十年一月頃から村産業組合の仕事として日本軍への大豆、芋の供出で多忙となる。
 昭和二十年二月頃、十五坪程の父の家の上座で四十歳前後の予備将校が二名居候していた。ある昼間、村から二〇〇m離れた日本軍を狙って放たれた米軍の艦砲弾が家の近くに爆発した。その爆発音に驚いた二名の将校は日本刀を腰にぶらさげながら咄嗟に家を飛び出し、父が家族の為に掘った小さな避難壕に身を隠した。この顛末を壕の外で見ていた父やその家族は日本兵の情けなさにあきれはててしまった。
 昭和二十年三月頃より村への空襲が始まり、県当局による村人の県北部(大宜味村字津波)への疎開が推進される。三月二十三日、父は第二次疎開者(女子、乳幼児が主体で約100人)の引率を命じられた。同日夕方出発し、軍用トラックで本島中部(現在嘉手納町)まで移動させられ、午後十時頃そこからは徒歩で目的地を目指した。昼間はグラマンの攻撃を避ける為木陰で眠り、夜行に行軍し約三日後に無事到着した。疎開地には周囲が雑木林の牧草地に約十坪の小屋が県当局によって十数戸用意されていた。疎開生活者の世話、準備の為四、五日滞在した後、父を含む引率者(男性五、六名)は再び村を目指して出立した(父を含む数人は仕事の為、他は疎開生活品を再運搬する為)。疎開地を出立三日後金武村に到着、そこで他の疎開民から米軍の本島中部方面への上陸(昭和二十年四月一日)と、それによって南部への移動が困難である事を知らされた。そこで仕方なく一行は元の疎開地へ引き返すことになった。疎開地で再び生活を始めた四、五日後の昼間、突如グラマン機が疎開小屋を襲った。多くは雑木林に難を逃れたが、一人が重傷を負い、同日夜、父を含む六、七人の男達は戸板で作った担架にその負傷者を乗せ、五km離れた軍病院へ運んだ。グラマンの機銃掃射後疎開民は再攻撃を恐れ、合議の上、各家族分散して山中で避難生活を営む事となった。父の親戚家族は大人四人(男は父のみ)、子供が六人であった。生活の殆どの時間は食料調達に費やされた。家から持参した食料は、塩、味噌、米、鰹節が主であったが、その食料は一ヶ月もたたぬうちに底をついた。そこで父は地元の避難民の小屋を訪ね、始めは金銭で、後には着物、針や糸との物々交換で芋を手にいれた。時には親切な地元民から小さな芋を貰ったこともあった。いよいよ交換物資もなくなり、よもぎ、つわぶき等の山菜もとり尽くした後は地元民の畑から芋を盗んで命をつないだ。夜間西海岸で海水を持ち帰り、何度か汁を作って食べたが相当まずかった。採取食料は他に蘇鉄の幹(感想して保存、水に浸して食とする)や手長エビ、カエル等であった。村人の中には荷馬車で物資を運んだ者が何人かいて、彼等の馬が時折つぶされ避難民の良きタンパク源となった。避難小屋は雑木を柱にし、壁は竹の葉で覆い、床は竹を敷いて作られた。七月十四日の米軍への投降までの約四ヶ月の疎開生活の間、米軍の銃撃で戦死した者二名、栄養失調の為亡くなった老人、小児が四、五名、ハブ咬傷一名(小児、手首を切断治療し、存命)、マラリア患者は出なかった。特に悩まされたのはシラミ感染で、子供達には「かさ」をつくり、とびひに罹る者も多かった。
 六月上旬のある日、父は敵兵の動向をさぐるため、松の木にのぼり、辺りを見回した。東支那海は水平線上を含め米艦船が隙間なく海上をうめており、その時父は自国の敗北を確信した。その頃ある村民が敗残兵から南部の日本軍が勝利したとの情報(実は食料を奪う為の偽り)を持ち帰り、それを基に合議の上、高嶺村民は全員で東海岸から南部へ向かい、旧久志村に着いたところで他村の避難民から真実を知らされ、再び元の非難小屋へ戻ったこともあった。その際、子沢山の婦女子の家族や他区民は戻るのが困難と判断し旧久志村の山中に新たな非難地を求めた。
 六月下旬になると食料事情は更に窮迫し、栄養失調も急増してきた。七月にはいって、大里区民のある避難民が捕虜にfなった住民は羽地の村で安全で長い暮らしをしているという地元民の情報をもたらした。その頃父が偶々食料取得の目的で地元民の避難小屋を訪ねた所、殆どの地元民がいなくなっていた。それらの様々な情報を基に各戸からの代表者で検討し、米軍への投降を決定した。
 七月十四日、晴天、暑い朝であった。午前九時頃、総勢約40人の老若男女の集団が白旗を先頭にして山をおりてきた。父は最後尾をまかされ、県道迄の二kmの山道を小一時間かかっておりた。県道に着いてすぐに数人の上半身裸の若い米兵の乗ったトラックに出くわした。成人男性のみを一列に並べ、米兵は身体検査を始めた。腕時計を奪われる者はいたが特に暴力を受けることなく、その場で暫く待機しているようにとの支持を残して米兵は立ち去って行った。その夜同じ米兵数人が懐中電灯をともしながら若い婦女子の方へ近寄って来た。父や男達は既婚、未婚のすべての婦人に子供を胸に抱いてうずくまるよう指示、数分後米兵等は事を起こすのを諦め闇に去って行った。
 翌早朝、米軍から何の連絡等もないので、一行は捕虜収容所を目指して南下した。約二時間の道中、数台の米軍車が横を通り過ぎて行ったが、車中の米兵らは一顧だにしなかった。旧羽地村字川上の収容所に着くと、米軍に収容、作業させられている沖縄人から、一行全員がおにぎりを貰った。その後父を含む青年男性五、六人は金網に囲まれ、武装米兵に監視されたテントへ、老人、婦女子は比較的自由な竹葦の長屋へ収容された。父が収容されているテントには約50人が生活しており、同様のテントが一〇張程あった。収容所での生活は朝九時から米軍用トラックで作業所へ運ばれ、家屋の解体や炊事、掃除、荷役作業を命じられ、午後六時にテントに戻る毎日であった。週六日働かされ、日曜日は休みで、親戚家族との面会日でもあった。食事は朝夕はテントで、おにぎりと味噌汁を支給され、昼食は作業場で監督の米兵から主に缶詰類を貰った。食事の量は十分であったが、煙草や石鹸、タオル、衣類等は作業場で米兵から盗んだり、個人的に米兵から貰ったりする者もいた。収容所生活一ヶ月過ぎたある朝、父は悪寒、ふるえ、その後高熱にみまわれた。以前にも同様の症状の仲間をみていたのでマラリアと判断し、事務所からキニーネを貰い、二、三日で治った。
 ある日、収容所から八km離れた名護市の海岸で米兵のテント小屋の清掃作業をしていた所、昼過ぎになって近くにいる数人の米兵らが手を叩き、奇声を発して笑い喜んでいる様子が目に入った。父は片言の英語と手真似で一人の米兵から戦争が終わった事を知らされた。その日は八月十五日で、この顛末は玉音放送の数時間後であった。その時父は安堵感と失望感の入り交じった心境であったが、未来には明るい予感を感じていた。
 収容所生活はその年の十二月二十一日に終わり、父は翌二十二日に家族(母、弟)と合流した。二十四日、父の家族を含む高嶺村の全ての捕虜は米軍用トラックで地元に近い糸満町に運ばれた。父は自宅に戻りたかったが、自宅周辺は米軍の砲弾の集積所になっており、近づけなかったので、糸満町の知り合いの家に身を寄せることになった。十二月二十七日から地域の復興の為父は多くの若者と共に農耕班として、苗代をつくる水稲作業に従事し始めた。
 十二月三十日、いつものように大里区の水稲作業をしている時、作業者を引率、監視する民間警察官(CP)と二名の米軍将校が父に話し掛けて来た。二名の将校は日本兵の残した日本刀や拳銃等の収集の目的で近くの壕に入ったが、壕内のp日本兵の気配で危険を感じたので戻ってきたらしい。米軍将校から壕の中の日本兵を収容するには通訳が必要だと言われ、英会話の好きな父は即座に協力を申し入れた。拳銃を持った米軍将校と父の三人は壕の手前50mの地点でジープを降り、壕に向かった。その壕は作業場から約一km離れた、日本軍の激戦地のひとつ与座岳の麓にあった。大人が一度に二人程降りれる縦穴を上から眺めると、穴の高さは一m余で穴底から横穴がのびているようであった。壕穴の真上から日本兵に話し掛ける父の後方で米軍将校は岩陰に澄んで拳銃を構えていた。恐怖を感じながらも父は大きくゆっくりした声で話し掛けた。自分の素性、捕虜になった経緯、玉音放送の後日本の敗戦が決定した事、米軍は決して捕虜を殺害したりはしない事等を日本語(標準語)、沖縄方言で交互に数度話し掛けた。途中、穴からの応答がないので、父は諦めて米軍将校に壕には誰もいないだろうと手で合図を送ったが彼らは絶対に居ると言う。話し掛け始めて30分程経った頃、横穴の奥から弱々しく「はーい」という応答が聞こえた。父は嬉しくなり「大丈夫ですよ、出てきなさい」と再度呼び掛けた所、再び「はーい、はーい」との応答があった。日本兵二人が横穴を這いながら出てきたので父は縦穴で立ち上がるよう指示、彼等は陽のまぶしさに瞳をちらつかせながら縦穴の壁に手をもたれ、ゆっくりと立ち上がった。父は一人ずつ両脇に手を入れ持ち上げて壕から出してやったが、その体重の軽さに胸が締め付けられる思いであった。彼らの頭毛や顔の鬢は汚れて伸び放題で悪臭鼻をつき、青白く衣類はボロボロで辛うじて上半身をかくす程度で、下半身は露出していた。一人は父が背に乗せて、他方はテントの切れ端に乗せられ米軍将校二人がそのテントの端を持ってジープ迄運ばれた。米軍駐屯地迄のジープの車上で父は日本兵二人と会話を交わすことが出来た。二〇歳台の若い日本兵は知念村字志喜屋の玉城しんとく、三〇歳前後の日本兵は本土の出身で村山、部隊名は3481、中山隊と父に語った。壕の中に潜んで以来約6ヶ月もの間玄米の生米をかじり、壕の壁を伝わる水滴をすすりながら生き延びて来た事、又彼等以外に他に二、三人の兵がいたが、数日前に亡くなった事等を一人が話した。また村山は父に自分を朝鮮人だと米兵に偽ってほしいと頼み、父は言われた通り彼を「コーリヤン」と米将校に伝えた。村山は礼として万年筆を差し出したが、父はこれを断った。日本兵を糸満の駐屯地に降ろした後、米将校と父の三人は再度壕を訪ね、米将校と壕を探索し日本軍の背嚢を手に入れ、父は壕の近くの畑から丸々と成長した冬瓜を二、三個家族の土産として持ち帰った。再び糸満に戻った父は、ジープの上からさきほどの日本兵が捕虜用の衣類を着せられ、別の収容所(屋嘉の軍人用捕虜収容所であろう)へ移動されて行くのを目撃し、これが彼等を見た最後であった。
 その後十数年の歳月が過ぎ、父が肺結核の再発のため病臥していた昭和三十年代初期、村山氏と思われる人物が壕のあった大里区を訪れたが父は会えなかった。それからしばらくして玉城氏の親族は父を訪ね、礼を述べ、玉城氏が復員後しばらくしてから海難事故で亡くなった事を伝えた。あれから五〇数年が過ぎた現在、気にかかるのは壕に放置された日本兵二、三人の遺骨である。今では周囲に草木が生い茂り、捜すのも大変であろうあの壕の横穴の奥で二、三の御霊は、水滴にうたれながら、我々による遺骨の収集と慰霊塔での仲間との再会を願っているだろう。     (2000・一・一九)
 基礎教室正面向って右側にあるこのモニュメントが目をひく。何を意味するものであろうかと思っていたが、横に立てられている説明に次の様に書いてある。
 昭和二十年(一九四五)八月九日、浦上上空に炸裂した原子爆弾によって長崎医科大学は一瞬の間に壊滅し、八九〇余命の教職員、学生の尊い生命が奪われた。廃墟と化した母校が不死鳥の如く蘇り、復興して五〇年を迎えるにあたり、長崎大学の医学、薬学、看護学同窓生はこの記念碑を建立して、原爆犠牲者を悼み、母校の復興に尽くされた方々に感謝し、母校の発展と恒久の平和を希うものである。      平成八年三月  長崎大学医学部原爆復興五〇周年
医学同窓会記念事業会
会長 今 村 臣 正